今回は微妙なお題ですね。
対人関係におけるいろいろな事の大概は、許容範囲であったり、聞き流せたり、仕方ないで片づけたり、自身の中の耐性を作る上での糧と考えたり出来ますが。
今回のお題、傷ついたから発した本人を恨むとか嫌うなんてことは、別段そこに視点を置いていないので、文字通り『言われたくない嫌な言葉』という枠組みになります。
私たちには子がいません。夫婦でお互いに検査も、不妊治療もしてきましたが、子供だけはどんなに望んでも、無理だったなぁと。
私が40代のある日、コミュニティで「来年もよろしく」と頼まれた時に、「子供が出来てたら無理だよ」と返した言葉への切り替えし。
「つくれたらね。」
心臓が凍り付くという形容はこんな感じなんだと、息が止まり時間すら止まった感覚に陥り、引き攣る顔をやっとの思いで口角をあげて、周りに挨拶をして帰って来た。
子供がどんなに欲しいか。
悪意も悪気も無かったのかもしれない。でも、言われたくない一番嫌な言葉でした。
ただね、言われた事は衝撃的でかなり苦しんだのですが、その方を嫌いになるか?と問われれば否。ただのコミュニケーションの中のやり取りとしての言葉だったのだろうと。
実際、彼女には娘も息子もいて、お孫さんもいる。それが彼女の日常であって、その延長線上の軽いノリのような感覚だったのかもしれない。
だから、後々になって娘さんが「母が無神経なこと言って本当にごめんなさい。」と謝ってきてくれた時にも、「怒っていないし根にも持っていないよ」と返しました。
言葉は受け取り方次第で、善意あるように聞こえ、悪意あるように聞こえたりもする。問題は自分の受け取り方なのだ。
確かに私は傷ついて苦しんだけど、悪気なく見知った人に言われた事によって、今後、悪意ある人の言葉で聞いても対応できる。耐性ができたから良しとしている。
そう娘さんに説明した。
人は何処に琴線を持っているか分からない。善意や軽い洒落のつもりで言っても、人によっては辛い気持ちになり悪意として受け止められることだってある。
人の心はコロコロと踊る。だから言葉もコロコロ転がる。
本質を見抜けるように、受け止める側の心を磨くしかない。磨けば研磨され聞き流すことも受け流すことも自在にできるのだろうと思った。
