日本には『達観』という言葉がある。
Google検索で調べると「細かい事にこだわらず,物事の本質を見通すこと。また,物事に超然として,悟りの心境に達すること。」とあった。そんな人物が存在するのだろうか?と若い頃、師事する人を探していた時に出会った方は正にそんな方だった。
物事の本質を教えて正しい答えへと導いてくれる方だった。教わった事はとても多い。
幼稚園がカトリックの幼稚園であったため、小さな礼拝堂のような場所で祈り、分からないことや悩みなどをシスターたちに聞いては、いろいろな考えを巡らせていた幼少期。大人になるにつれ、達観された指導者の下につきたい思いに駆られました。
流れ的に考えるなら、シスターや神父様に気持ちが向くのでしょうが、カトリック幼稚園であったその教え方が柔軟だったため、私の視野を広く持たせてくれました。
実は聖霊幼稚園というカトリック幼稚園にも関わらず、年長組になるとお寺に座禅しにいくのです。それはもう、本格的な座禅。
お坊さんが警策(きょうさく、けいさく)を持って、座禅をしている私たちの後ろを歩かれて、時折、パシーンと音が響き渡る。1時間以上に感じられる30分の座禅。その後の説法。
センセーショナルな体験でした。日曜礼拝に出向いて最後には洗礼されて、青いペンダントの中に白いマリア様の像が描かれている物を頂き、名前まで授かっている者が、お寺で座禅。しかも30分微動だにしないくらい、静けさを保てる子供たちって・・・自分も出来てしまっているので、何とも言えない感じでしたが。
ある日、あの小さな礼拝堂でシスター長に聞きました。何故、カトリックで仏教の禅をするのかと。5歳児の自分が問うような事ではないと思いつつも、不思議と気になっていたことを直球で聞きました。
聖職者としては、このままカトリックの道を進んでもらいたいけれど、親御さんの庇護下にあるあなた達子供は宗教の垣根を作らなくても良いでしょう、と。
そして、カトリックの素晴らしさ厳しさと、仏教の素晴らしさ厳しさも、どちらも宗教という部分で持っていることを知って欲しいからです。あるがままに。
と、答えてくれた。
真剣に答えてくれたシスター長の言葉は、「こうあるべき」という考え方を壊してくれた。
そして、私が素晴らしい人格者と出会えたのは、お寺の行事をしている最中だった。恩師に連れられ、真言宗の尼僧様に紹介してもらったのが始まり。
悩んだ時には、自身の考え方が正しい方向になっているか、何が足りないのかを聞いてみたりもした。
心は常に離れた安全な場所に。自身を正しく保ちたいなら、如何なる時も心の湖面が揺らがない様、揺らいでも直ぐにおさまるように。そして、その揺らいでいない湖面に何が写っているか、しっかりと見極める。
本当にたくさんの事を教わった。
達観という表現がふさわしいくらい、素晴らしい方だった。その教えは今でも私のネガティブな感情を打ち払い、ポジティブで光満ち溢れた気持ちへと歩ませてくれている。
シスター長からも、固定観念の打破を教えてもらったので、尼僧様と同じく大切な教えを貰った一人です。
